前口上
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鼻息男って?
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【はじめに】このお話と、このお話を手がかりに、「作る人」と「受け取る人」について鼻息男なりに考えてみました。今のところこのあたりで精一杯です。 ダイレクトメール 鼻息男は、「作る人」は作りたいから作っているのだと思っている。 というよりも、作らずにはいられない人こそ「作る人」と呼ばれるべきだろう。 これは音楽に限らない。工芸も、絵画も、映画も、小説も、詩も。 それ以外のことはできないというくらいに作る気持ちがあふれている人たち。自分でも気がつかないくらいになっていて、ふと我にかえると作っていた、なんていう人たち。 それが「作る人」なのだと思う。 ただし「作る人」は、自己満足だけで作っていようが、誰かにウケるために作っていようが、どちらも同じように「作る人」と扱われてしまって仕方がない。誰も文句の言いようはない。 絶海の孤島で独り自分が傑作だと信じる作品を作っているなら十分に「作る人」の資格を満たしているだろうし、道頓堀にかかる橋の上で通行人に向かい、パクリすれすれのいかにもウケそうな曲を作って唄っていても、それは「作る人」で構わない。 【わきみち】少なくとも他人からは内心をうかがい知れないのだし、明確に区別などできるはずもない。その点はいまのところ重要ではなく、いい加減な人も「作る人」に含まれてしまうのは仕方がないということだけを確認しておけばいいと思う。大袈裟に言うならば、「作る人」は、自分自身を含む全世界の人に向けて、自分の死んだ後に生まれるだろう全世界の人に向けてさえ、発信している。その意味では確かに一方通行的な関係だ。 しかし、自分に向けられているという信号を受信しなければ、発信者は存在しないも同じだ。 たとえば、誰かが手紙を投函しただけで、配達されてもいないのに、「みぃんな、わいの"受取人"やで」などと世界の中心で叫ばれても困るだろう。配達されたって、無視したダイレクトメールを「受け取っとるやないけぇ」などと凄まれたら迷惑このうえない。(摂津方面?の方、済みません。) 手紙を受け取って、返事を書かなければ、手紙を受け取ったとは言えない。 「受け取る人」は、作品を「評価」することなしには存在できないのだ。 受け取る人にとっての作る人が、作品を評価したときからしか存在しないのと同様、作る人にとっても評価してくれる人が現われてはじめて、受け取る人が見えるようになる。 だから鼻息男は「作る人」と「受け取る人」の関係は一方通行ではありえないと思っている。それは「相互交流」というよりも、「人と人の関係そのもの」と言う方がふさわしい。それは、なにか固定的なものではなく、運動のようなものだ。 理解者である前に 作りたい気持ちで作ったもの、自分のために作ったものを、自分以外の誰かが褒めてくれるときがある。 その瞬間こそ、「作る人でない人たち」が「受取人」になる瞬間で、「作る人」と「受取人」の間に交流が生じる瞬間なのだと思う。 当然、誤解や過大評価の例は数え切れないだろう。パクリ半分で作ったのにみんなが褒めてくれることがあるだろうし、傑作だと思ってるのに誰も褒めてくれないこともあるだろう。 【わきみち】一方ではまた、褒めることで「わたしはあなたを理解している」というメッセージを「作る人」に向けて発信できることを利用して、間違った理解を押し付ける「理解者」がいるかもしれないし、センスが良いと誰かに誇示するポーズとしての「理解」もあるだろう。このあたりは鼻息男が十分に気をつけなければいけないと思っているところだ。しかし、一つだけ揺るがないことは、「受取人」は「反応する人」だということである。 繰り返しになるが、違うコトバで書いてみる。 「受取人」というのが単に「作品に(五感で)触れる人」という意味だったとしたら、「作る人」を除いたすべての人々が、例外なく「受取人」になってしまう。 「受取人」は立場のようなものではない。「反応を返すこと」が「受取人」であることを示す目印だ。 肯定的にせよ、否定的にせよ、「作る人」に向けて自分の評価を示す、反応を返すことで、初めて人は「受取人」になるのだと思う。 褒めるのと貶すのは反応の仕方が違うに過ぎない。 【わきみち】それが的を得た評価であれば「理解」になる。理解者が常に褒めるわけではないのは当然だ。「作る人」は「理解者」が欲しいだろう。「受取人」では、きっともの足りないだろう。そして、たとえ誤解だとしても、過大/小評価だとしても、他人の評価に付和雷同しても、その人なりの「理解」に基づいて「受け取る人」は行動する。数限りなくいる「作る人」のなかから、「自分の眼」で、何人かを選び出す。 「受取人」は選ぶことで発信する。 それは受取人自身の表現だと思う。 【わきみち】ヒットチャートは、だから、今現在の日本の受取人たちの評価を数値的に可視化したものと言えるだろう。その集計方法の詳しいことは知らないし、わりと怪しんでいる。だが、信用できないと怒ることもできないし、鼻息男は「売れている」情報をそっとしておくことにしている。 余談 何年も前の雑誌「宝島」(だったと思う)に、武満徹さんと井上陽水さんの対談が載っていた。 一つだけ覚えていてその他の内容は忘れているが、それは、井上さんが「(自分のためでなく)大衆のために作品を作っている」という意味にとれる返事をしたのを武満さんが聞き咎めて、自分のために作っているのではないのかと質したことである。 結局武満さんは「売れるといいなぁと思って作っていることはあります」といったような井上さんの答えで、一応満足して引き下がったかたちに書かれていた。 井上さんはこのとき、武満さんに対してウソをつかなかったのだろうと思う。 まじめな「作る人」にも色々な意識の人がいて、「作る人一般」を想定することはとてもむづかしいと鼻息男は思う。[ー、] 【あとがき】こないだから考えていたことは、とりあえずこんな風にまとまりました。一生懸命考えたので、鼻息男はすごく疲れてしまいました。感想をお聞かせくだされば幸いです。
by gyou-ten
| 2005-07-17 10:17
| 仰天、な思いつき
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