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鼻息男って?
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「原田君の発言にはなぜ誰も応じないのですか?」 甲子太郎
「いまにあんたもわかる。」 歳三 こつねさん(小西美帆さん)なのですが、お座敷に出ていたときとまったく違った美しさで、鼻息男はびっくりしました。 それはともかくとしまして、第30回「永倉新八、反乱」で坂本龍馬さんは勝海舟さんの神戸海軍操練所に通いつつ(?)、薩摩藩邸に西郷吉之助さんを訪ねていました。勝先生の意を受けてということではないかと思いますが、薩摩が長州をこの時点でどうしたいか、あたりをつけに来たように描かれていました。 坂本さんには長州は征伐するという公式見解を述べていた西郷さんですが、第32回「山南脱走」、松平容保、松平定敬兄弟と、西郷吉之助、佐々木只三郎、近藤勇の五者会談の場面では、会津と薩摩が一枚岩でないことを態度でハッキリと示していました。 【わきみち】さらに西郷さんは第35回「さらば壬生村」で、当時不遇をかこっていた岩倉友山(具視)さんの庵を訪ね、再登板する気があるかどうかあたりをつけに来ていました。情勢はそれを許さないようでしたが(「プィ! …あほくさ」)、やはりこの時点では薩摩の独り勝ちのために行動していたということでしょうか。潜伏中の桂さんも彼に密書で接近を試みていましたが、捨助のぞんぶんの働きでこれは不首尾に終わりました。 この会談で佐々木さんは大阪沿海の防備を進言し、近藤さんは蘭方医(?)松本良順さんの話を踏まえて象山先生の意見を引用します。(1) 速やかに開国、(2) 富国強兵、(3) 再挑戦という「まことの攘夷三段構え」です。 松本さんの状況認識は間違っていないでしょうし、その後の明治政府のやったことを考えれば結局この三段構えが正解だったわけですが、近藤さんは佐々木さんに脅されます。 佐々木只三郎は「思考停止」しています。佐々木さんは近藤さんに、同じ幕臣としての立場で真摯に意見しているようですが、幕臣は徳川幕府に忠節を尽くすのが本分であり、具体的には、①余計なことを考えない、②上役に異を唱えない、のだと言います。要するに部下は自分の基準をもつなと言っているわけで、今の世の中でもこれと同じことを言いそうな人がたくさんいるわけです。 【わきみち】土方さんは隊士に同じことを強いており、佐々木さんは近藤さんに対し、より大きな基準に忠であれと言っていることになります。二重の忠義です。近藤さんはこれに応じて、ものすごく大事なことを言います。 「報国」=「諸外国から日本を護る(攘夷)」は確実だ、しかし「今の攘夷が日本のためにならないとしたら」どうなるのか、言い換えれば「いま自分たちが正しいと思ってやっている"佐幕"が日本のためにならないとしたら」どうすればいいのか、という問いです。 いやぁ、核心部分です。徳川幕府を援けることに意味があるのかどうかを考えようとしております。ところがこれへの佐々木さんの応答が泣かせます。 「近藤殿、もう止しましょう。」 佐々木さんには佐々木さんなりの個人としての考えがあるのかもしれませんが、彼はそれを言いません。幕臣として相対している限り、近藤さんの疑問に答えるすべはありません。 なんとこの後、別の機会に近藤さんは同じ言葉を遣います。 「坂本さん、その辺にしておきましょう。」 勝先生が役を解かれ、操練所が潰されて、幕府に期待しないと心に決めた坂本さんでしたが(2月21日/ 第32回)、「そういう間柄ではない」深雪太夫の身請けで寺田屋を訪れた近藤さんに風呂で出くわします(3月5日/ 第34回)。坂本さんは、山南さんに続いて近藤さんに、幕府は要らないとまでは言わないものの頼りにならないので、自分たちでどうにかするつもりだという考えを話します。 坂本さんには自分が佐々木さんに言ったのと同じことを言われているだけなのに、どうして佐々木さんと同じコトバを遣ったのだろうと、鼻息男は考えこんでしまいます。 「上さまあっての我らではないのですか?」と、佐々木さんの立場を坂本さんにあえてぶつけてみて答えをもらおうと思ったのに、坂本さんはただ「幕府がなんぜよ」としか答えず残念だった。あるいは、深雪太夫とつねの成り行きが心配で、別の意味で思考停止に陥った。もしかしてそんな理由なのでしょうか。 前々回(煮物の美味い店)書いた〔孝明天皇 → 松平容保 → 近藤勇〕の"直系意識"のようなものが、第35回ではあらためて孝明天皇の側から持ち出されていました(容保が31歳、近藤勇とやらが32歳、われとそう変わらぬではないか)。もしこのまま近藤さんが「思考停止」にすがってしまっても、孝明天皇が死ななければ、そして徳川幕府が瓦解しなければ、それはそれでよかったのだろうと思います。ただ、現実にはそうならなかったわけで、歴史における「もし」を近藤さんについて考えるとすれば、この時期に転換期があったとみてよいのかもしれません。 いよいよ土佐脱藩 中岡慎太郎が登場し、坂本さんと太宰府で相談してました(第35回)。これ以降、藩邸に西郷さんを訪ねて勝先生からと言いながら金平糖を渡したり、潜伏中の桂さんを寺田屋に呼んで「憎いから同盟できない」と言われていた坂本さんの薩長同盟への尽力が本格化します。 3月10日に新選組は西本願寺に移転し、京都での存在感を増します。何のためにその存在感を増したのか、その意味を近藤さんは考えなければなりませんが、近藤さんの周りからは、山南さんも、坂本さんも去っていきました。新選組には、近藤さんに判断を委ねて思考停止している人たちがたくさんいます。その意味では土方さんも同じです。 思考停止することで判断は一定し、揺らぎません。佐々木さんの表現を借りれば「危うさ」がなくなります。その代わり、状況変化に即座に対応できない、柔軟さを欠いた硬直的な組織ができあがります。今の世の中では、内部からの批判を受け容れないそうした硬直的な組織の欠点を説く本がたくさん書かれています。思考停止は「まことの忠義」ではない、ということだと思います。 そんな風に考えてくると、幕臣、藩士という立場から離れられず、思考停止に拠って立っている人が殆どである中で、勝海舟という人は幕臣でありながらその立場を越えることのできた重要な人物なのだなぁと感じます。桂さんも西郷さんも、後のことを色々考えに入れれば、偉い人と呼ぶことにためらいはありませんが、少なくともこの当時、自分の属している藩の利益をどの程度超えることができたのか、よくわからなくなってきました。倒幕が長州ないし薩摩の藩としての利益にかなっている、という基準で行動している限り、もし事情が逆であれば、彼らは幕臣と同じ思考停止に陥ったかもしれないからです。この点はこのドラマからはよくわかりません。 「攘夷」という点では共通しても、徳川幕府にどう接するかで大きく立場が異なり、共通点を忘れて斬り合いになってしまう。「佐幕が日本のためにならないとしたら?」という問いを立てることができないがために。後からはなんとも言えるわけですが、壮大な、そして哀しい「無駄」でした。 それにしてもサイドストーリーがまた多くて、書ききれません。 深雪太夫と妹さんの話、近藤周平と井上源さんのからみ、新婚の仙波甲太郎・お初夫妻と松原忠司さんのからみ、沖田総司の労咳と八木ひでとの悲恋(遭っちゃたら逃げるんだよって、沖田くん…)、佐之助の恋の行方、お登勢が折ったもとのはたきはどうなったのか…。 そういえば、山南さんの脱走の時も「みていればわかる」という発言がありましたし、駕籠代の五両で「俺のせいだ」と羽織をいじるあたり、捨助の立ち合いに唖然としながらも「できる」と勘違いするあたり、このところ斎藤さんは笑いの面で大役を果たしています。 …つねさんとみつさんは二人でさみしく江戸へ帰ったんでしょうねぇ。[ー、]
by gyou-ten
| 2005-08-14 11:58
| 仰天!、な「新選組!」
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