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「王政復古だってのによく稽古なんかしてられるよなぁ」 魁
「昔はこういうときに解説してくれる人が必ずいたんだがなぁ…」 新八 というわけで、第40回「平助の旅立ち」から第47回「再会」までを観ました。 前回からだいぶ間があいてしまいましたが、家茂が死に、孝明天皇が死に、大政奉還がなされ、坂本龍馬は殺され、慶喜が江戸へ逃げるように帰り、薩長の世の中になりつつあります。 細かいことは除き、大づかみで感想を書きたいと思います。 「新選組」は「新遊撃隊御雇」を経て、「甲陽鎮撫隊」になってしまいました。勝海舟さんの発案です。 その評価はわかれても「新選組」の「近藤勇」は少なくとも有名であり、佐幕の代名詞になりました。佐幕運動が再び盛り上がることで「内戦」を長引かせたくない勝さんにとって近藤さんは甚だ迷惑な存在なので、「甲陽鎮撫隊」の「大久保たけし」にさせられた格好です。しかしこれは、近藤さんと新選組が努力したことの証明です。 徳川家の家臣(直参)にとりたてられ(第41回)、完全に幕府に取り込まれたわけですが、徳川の世が続くと考えていたにせよ、あるいは徳川を無視した新政府は考えづらいとしていたにせよ、京都へ来てからの努力が報いられたものとよろこびます。 結局は、象山先生の「まことの攘夷三段構え」とか、ドラマの中では清河八郎さんに代表されていた身分制度否定の考え方などを思い出さなければならない状況になっていながらも、近藤さんらはもはや振り出しに戻ることはできず、いうならば幕臣になったとたんに「旧幕臣」としての人生が始まってしまった感じです。 薩摩はイギリスを背景に一貫して武力倒幕を進めています。薩摩にエゲレスがついていたように、幕府にはフランスがついていました。このことを十分に意識したセリフを三谷幸喜さんは坂本さんに言わせています。「大政奉還」のアイデアは、この時期の内戦が、①国力を疲弊させ、②エゲレスとフランスだけをよろこばせる点を踏まえたものです。彼が殺された後、そして鳥羽・伏見の敗戦のあと、徳川幕府最終段階での勝さんの尽力も、内戦回避を主眼としています。 その意味で「まことの攘夷三段構え」の考え方だったと思われる、勝海舟/ 佐久間象山(暗殺)/ 坂本龍馬(暗殺)らを真ん中におくなら、武力倒幕の薩長勢力に対置されるのが、武力佐幕勢力の見廻組・佐々木只三郎と新選組・近藤勇だったという風に見えてきます。 【わきみち】坂本さんは、 思えば、清河さんも、近藤さんも、坂本さんも、勝さんも、西郷さんも、大久保さんも、みな下級武士だったようです。清河さんのような身分制否定だったか、あるいは近藤さんのような経験があったかどうかはともかく、薩長の中心人物達も(特に、長州の人達は吉田松陰さんの考え方にも触れていたのでしょうから)、身分制に対する評価という点では、互いに結びつく可能性がなかったとは言えないのではないかと思います。 「徳川を潰し、おいどんたちが次の時代の頭になるためには、あん男にいてもらっては困る」と言って坂本さんを煙たがる西郷さんのコトバの中に、「徳川を残しては身分制の世の中が続いてしまう」という気持ちを聴き取ると贔屓になってしまうでしょうか。 ですから、慶応3年(1867年)11月18日、醒ヶ井で伊東甲子太郎に向かって、 ・ 薩長は己の欲得のために国を動かそうとしている ・ 実力主義の世の中が望み(新選組のような、と彼は言う) と言い、薩長の世の中になったら出自による差別が実現されると睨んでいたかのように描かれている近藤さんは、このとき限りなく清河八郎さんに近づいているわけです。 しかし、薩長の新政府が宜しくないとしても、だから徳川幕府の存続がよいと言えるかどうか、むづかしいところではなかったかと思います。このあたりを庄内藩へゆくという沖田みつさんが近藤さんに訊けば、面白かったと思います。みつさんは核心をつく質問をする役目ですから。 【わきみち】「薩長出身でないから伊東甲子太郎は受け容れられない」という近藤さんの言い方は、後の藩閥政治を考えると納得がいくようにも思えますが、伊東さんの「大開国策」がどれほど素晴らしかったとしても、伊東さんの価値は、西郷さんや大久保さんから見るなら、武田観柳斎とさして変わらないと言ったら言いすぎでしょうか。みつさんが訊いたのは「薩長の世の中ではみんなは幸せになれないの?」でした(第47回)。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸で薩長を迎え撃つ腹積もりになっている近藤さんは、薩長が義のない戦を起こし、この国を意のままに動かそうとしていて、人々の幸せを考えていないので、彼らの思うままにさせてはならないと応えます。 鼻息男は、また、ずいぶん考えました。山南さんのこともだいぶ考えましたが、今回も考えてしまいました。それで前回の投稿から間が空いてしまいました。 というのも、近藤さんの真意はこの応えの中に込められていないのではないか、という気がしたからです。 「まことの攘夷三段構え」を知っていたのに、「報国」についても悩んだ近藤さんだったのに、容保さんが好きで、佐幕の道を選んだ近藤さんでした。一時は[孝明天皇 - 松平容保 - 近藤勇]の絆のようなものまで描かれました。大政奉還が形を変えた佐幕であることを永井尚志さんに教わって、坂本さんを護ろうとしました。容保さんならこうするだろうという「正義感のようなもの」を指針にしています。 そこには、これまで新選組が活動してきた中で命を落とした人たちへの追慕が大きく影を落としているように感じました。その場の勢いで慶喜さんに二条城の警護を任された近藤さんが、水戸藩家老、大場一真斎さんに詰め寄る場面が印象的です。内には法度に自刃し、外には不逞として斬られた人々がいました。内向きの法度も、外向きの御用検めも、なにもかも徳川のため、この五年間はすべて徳川のためと言い切る近藤さんです。 したがって、薩長の世の中が迫っているとしても、幕臣でなかったとしても、新政府が身分制廃止を実行するとしても、そして、負けると知っていても、彼らに反抗せざるを得ない。迎合は、さきに逝った者の死の意味を失わせるからです。近藤勇亡き後、土方さんが五稜郭で戦うのも同じでしょう。 勝海舟さんに甲府へ行ってくれと命令された時、新選組が「甲陽鎮撫隊」になり、近藤勇が「大久保たけし」になったとき、近藤さんは勝さんに、もはやこの時点で幕府を助けることは日本のためにならない、と宣告されてしまったのだと思います。これまでに失われた多くの命は無駄だったと言われた、それが近藤さんの解釈だったろうと思います。 鼻息男は、「じぶんさがし(組の中、その7)」で【わきみち】にこう書きました。 「山南さん以降、先に死んだ(死なせた)者に顔向けできないという理由が強い説得力をもつようになってしまいました。まるで、死者に拘束される思いです。偶然であろうがなんであろうがある立場にたってしまった以上、その立場に殉じた人たちを忘れない限り、別の立場へと歩み去ることはできません。これは忠義の問題とはまた別の、とても大事なことだと思いますが、まだちょっとよく整理できていません。」 死んだ者に顔向けできないという意識。生き永らえることを恥ずる気持ち。それは、死んだ人を忘れられないからこそだろうと思います。死んだ仲間を愛しく思うから徹底抗戦に赴くのですが、それが薩長が赦せない、悪いというコトバになって出てくるのだろうと思うようになりました。 残すはあと二回。近藤さんが刑死したとは知りませんでした。[ー、]
by gyou-ten
| 2005-09-07 08:01
| 仰天!、な「新選組!」
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